玉葉

梅雨寒でしょうか?何着りゃいいか分かんないすよね 

 

「女の腐ったような」という表現は今の世の中即炎上となりましょう。

でもどっぷり昭和人間のあたくし、あえて使わせていただきます。
 
座チャンネルの朗読・新平家物語は一門都落ちから京の木曾殿へと進んでまいりまして、木曽義仲入洛後初の院参となり懐の窮鳥ともいうべき叔父新宮十郎義家と共に後白河法皇謁見であります。
この義家さん戦やれば負けるくせに権謀術数には長けており頼朝に追い出されてかくまってもらっているにもかかわらず何かと厚かましく、この時も義仲騎下の一将の立場もわきまえず並んで御前へ伺候しようといたします。
当然義仲は面白くない。
でね
 
そういう心理のあやを御簾の内の法王はじめ居並ぶ公家百官は見逃さず、二人が下がって後の廟議でひそひそと囁き合うのですが摂関政治四世紀を経てなお武家を飼い犬くらいに見下げている殿上人にとっては平家に代わって都に入った源氏をいかに操るか、誰と誰を対立させて自分たちがマウンティング取るかなんてことに汲々として、その様子がまさに女の腐ったようなんでありますよ。
400年もの間院中の権力争いで足の引っ張り合いや讒訴なんぞばかりやってるとこんなになっちゃうってこってしょうか。
しかもこれね
 
昨今批判されることも多くなったいわゆる司馬史観による創作と違い、九条兼実の日記「玉葉」にもちゃんと書いてあるんですわ。と、吉川先生が書いておられまして。
800年以上も前の歴史のワンシーンを同じ言語で読めるなんてすっごいと思いませんか?
 
日本人でよかった